「世界には推ししかいないんだ。」

2・5次元の感想や俳優の茶の間ライフ中心にアイドルや声優についても書いてるブログ。

映画「聲の形」を観て考えたこと

 こんにちは、かのです。

 劇場公開時から気になっていた映画をやっとDVDで観ました。観終わった直後から感想記事を書いていたのですが、それよりも先にこの映画に残された爪痕について自分の心の整理も兼ねて書き出してみようと思います。

 要はこの映画の伝えたかったことを私なりの解釈で文章にしてみようと思います。

 あらすじは書いていませんが、展開について触れていますのでネタバレありと思って下さいませ。

 また、この映画の評価を見たとこ、1と5のレビューしかなかったように、人を選ぶ作品です。「ここさけ」で全く同じようなレビューの割れ方を見た。

 つまり、作品のメッセージ性について考えるのが好きだとか、いじめに思うところのある人、人間の心情を考えるのが好きな人なんかには響く映画です。

 私はここさけは前に感想書いた通り惜しかったと思ったんですが、こちらはほぼ満点をつけたい出来でした。

 さて、本題ですがまずは「いじめ」の問題。

 加害者側の心情が語られることはあまり創作の場で見かけない気がします。

 今期アニメの「3月のライオン」もいじめのテーマを扱っていて、辛いけど私は見なきゃと思う作品です。こちらは被害者と被害者を庇った女の子の視点。

 「聲の形」では加害者から被害者になった少年の視点。いじめの対象が変わることはよくあることです。そして、傍観者や教師の存在も必ずある。

 被害者側になった少年は、対人恐怖の視線恐怖のようになってしまいます。中高と被害者になり周囲の友人やクラスメイトは掌返し。

 そしてもう一人の被害者、聴覚障害を持つヒロインは歩み寄ろうとしたものの失敗してしまい(彼女は筆談でコミュニケーションを取ろうとしたが、クラスメイトは彼女の世話をしてるうちに授業に遅れたり不便を味わう)教師の勧めで特別支援学級への転校をすることになる。

 「歩み寄り」はこの作品の重要なテーマの一つだと思います。

 結論から言うと具体的に何かが解決するわけではない物語です。

 そこで低評価される方もいたみたいですが、解決しないからこそ「考える」きっかけになる。解決しないことがリアルな気もします。

 登場人物はみな人間らしい汚さを持っています。いじめに対して被害者・加害者・傍観者がいるように気に入らない理由、八方美人に徹する理由がおそらくそれぞれにあります。

 一度はぶつかって暴言を吐き合い、バラバラになります。小学生の頃の罪や後悔は言葉にできないまままた彼らを苦しめます。

 硝子の飛び降り自殺、それを庇った石田の昏睡状態という死を目前にしてもやっぱり彼らは変われない。けれど、歩み寄ることはできると最後は希望を持たせてくれます。植野が硝子に手話を使うシーンなどで感じられました。

 もう一つのテーマは「人はそんな簡単に変われない」ということ。

 この件については佐原さんがわかりやすい例かと思われます。

 彼女は、硝子と話せるようになりたく手話を覚えますと小学校の学級会で立候補するものの気に食わなかった植野によって言葉によるいじめを受けます。

結局学校に来なくなってしまった佐原。

 しかし、高校生の彼女は外見的にもすらりと背が伸び、手話も硝子と会話ができるほどに習得し、すっかり乗り越えた、変われたように見えました。

 しかし問題にぶつかると、「臆病だから」「変われてない」と口にします。いつも逃げてきたことが彼女の後悔。

 けれども、佐原さんはいじめてきた植野と同じ高校のデザイン科に進学し、今では彼女の才能を認めていると言います。表面上しか変わってないように見えて、弱いことを責める彼女ですが植野を許せないままではなかった。

 弱さは優しさでもあると思う。手話を覚えたいと言った小学生の頃の彼女の「思いやり」は高校生の彼女にも確かに変わらずあると思うのです。

 優しいことは大きな長所です。優しい人が傷つく世の中だけど、変わらないことはマイナスばかりではないと佐原さんを見ていて思いました。

 もう一つ、「弱さ・優しさ」も大事なテーマだと思います。

 優しい、で思い浮かぶのは硝子の妹の結弦。彼女は不登校で姉の心配ばかりしています。硝子に傷ついてほしくないのです。そのため自己犠牲も厭わず、硝子を守ろうとします。結弦の行動原理は姉への憐みではなく、彼女の持つ優しさだと私は思います。幸せになってほしいってたとえ家族でも必ず想えるものではないですから。

 しかし、そんな結弦のことを心配している人もいます。祖母と石田は彼女の自己犠牲に気づいて心配の言葉や行動をしていました。

 また、硝子も終盤になり彼女の学校復帰のお手伝いをしていたそうな。

 あとは、テーマとして感じたのは「あなたのままでいい」ということ。

 これは私の捉え方でそう思っただけなんですけど、最近実際にある人に言われたことでした。

 佐原さんの「弱さ」へのコンプレックスみたいに、また、硝子の聴覚障害のようにみんなさまざまな想いや経験、障害などを抱えています。それを乗り越えることこそ美徳のように教えられて生きてきました。

 でも、長所は短所にもなる。逆も然り。自分をねじまげて性格を変えてまで生きるのは辛いです。実際そんなことができる人もいないのでは?ストレスでおかしくなってしまいそうです。

 他人と違っても、自分の「理想」と違っても、できないことがあってもいい。

 この作品で植野は、硝子のことが嫌いで本人にも面と向かって言います。彼女もいじめをしたり褒められた人物ではないですが、このブレなさは良さでもあるんじゃないかと思いました。

 きっと植野は硝子や川井にはなれない。

 そこで「歩み寄り」なのです。

 自分は自分、他人は他人。その違いをありのまま受け入れて、すり合わせて行く。それが相手を理解するということなのかなぁと感じました。きれいごとみたいだけどできたら素敵だと思います。

 そして、CMやポスターでも使われていた石田くんの言葉。

 「きみに生きるのを手伝ってほしい」。

 このセリフとても好きです。

 小説やドラマでよくプロポーズの時に「君の背負ってるものを半分背負わせてほしい」っていうじゃないですか?

 私、あれ重くて嫌ですww

 背負うって言うと重たい荷物に感じますが、「手伝う」っていうと身近に感じませんか?

 あと、東日本大震災以来の「絆」ブーム。あれも私嫌いです。

 なぜなら私は被災者です。助け合うことは絆がどうのじゃないです。

 いざというとき助け合えるのは意外と知らない人同士です。

 かたや世間はSNSで繋がる時代。絆ってなんですか?

 おや、脱線しました。

 「手伝う」とは言っても「生きること」なので決して軽くはないですが、使い古された「背負う」表現よりよほど秀逸で素敵だと私は思います。

 傷ついて何かのせいにして自殺しようとした二人が「手伝う」ことでお互いをフォローできるのなら生きる希望が湧いてきそうです。

 手伝うは、一方的な行為でもありますが手伝い合うことで自己犠牲ではなく「思いあう」ことになるのではないかと思います。そんな二人になってくれたら視聴者も嬉しいです。

 以上、この作品から読み解いたメッセージです。

 読み返して恥ずかしいほど拙いですが、この映画から受けた爪痕の整理ができました。

 明日から日常生活に活かすとしたら、自己犠牲をせず自分を大切にすること。そして、他人の違いを認め、歩み寄る努力をしてみること。

 あれ?複雑にこんがらがっていた頭がすっきりしました。それって散々道徳の授業で習っていたことですよね。大人になっても難しいな。

 自分も他人も大切にする。来年の目標にでも掲げてみようかなと思いました。

 なんだかエゴ満載の記事になりましたね。

 でも、この映画はエゴのぶつけ合い。私のエゴもささやかに発信させて下さい(笑)

 この記事を書く前に書いた感想。加筆修正して載せました。

 

 

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